昨夜、雪が降るとは知っていたものの
日が変わるころと信じてた。
小雨が降っていた21時過ぎの都内から帰路につき
22時過ぎた最寄り駅では、すでに雪が降り始めていて
置いて帰るわけにはいかない原チャリで帰宅。
顔面にベチャベチャと当たる雪に耐えながらの形相は
歌舞伎の「見得」のようだと自分で想像しながらおかしくて
知ってる人には見せられないと思いつつ
家路を急いだヒキダシ女将の岡田慶子です。
粘っこいものを食べていたわけではないけれど
友人と食事をしながら「~ねばならない」について話す。
この粘着質で絡みつくもの。
剥がしたら、無意識にまた別の箇所につけてしまいがちなもの。
でも、自分がそれらを付けていることには気づきにくいもの。
目に見えたり、見えなかったり
言葉にしたり、したこともない自分の中のモノサシが
それら以外を許容しづらいとき
「ダメだよ、これじゃ」
「ふつうはこうあるべきでしょ」
「こういうものじゃないの?おかしいよ」
「(…モヤモヤ、イライラ)…違うよ、これ」
なんていう反応をする。
モノサシは、「あるべき」ガイドラインとして事象を捉え
修正するために「ねばならない」という信号を出す。
「ねばならない」というのは「したい」というのとは遠く
義務的に、したくない、「できないけどしなくてはならない」印象だ。
「したいこと」「することに無理がない」ならば、「ねばならない」なんて言わない。
自然にできていることに、こういった表現はしないからだ。
この「~ねばならない」は
本当に「ねばならない」のか。
ねばならないことを
これ、やろう!に変えられるのがイチバンだけど
これ、やらねばならない、という出口ではなく
これ、やってもらおう!として
いいよ、やるよ!に繋がったらいいのに。
でも、そもそも
そのやらねばならないことよりも
なぜ「ねばならない」と思うかの
その人にぴったりと貼りついた"価値観"や"習慣"の
ネバネバとその人に貼りついていることが転換できないと
こういう変化は難しい。
ねばねばした話はキレが悪いな(笑)
「ねばならない」って、少ないほうが
人生楽に生きられていいみたい、と人生折り返した友人とやりとりしたネタ。
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